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猫と庄造と二人のをんな

2024年2月11日 日曜日

猫と庄造と二人のをんな

谷崎潤一郎



福子さんどうぞゆるして下さい此の手紙雪ちやんの名借りましたけどほんたうは雪ちやんではありません、さう云ふたら無論貴女は私が誰だかお分りになつたでせうね、いえ/\貴女は此の手紙の封切つて開けたしゆん間「扨さてはあの女か」ともうちやんと気がおつきになるでせう、そしてきつと腹立てゝ、まあ失礼な、………友達の名前無断で使つて、私に手紙よこすとは何と云ふ厚かましい人と、お思ひになるでせう、でも福子さん察して下さいな、もしも私が封筒の裏へ自分の本名書いたらきつとあの人が見つけて、中途で横取りしてしまふことよう分つてるのですもの、是非共あなたに読んで頂かう思ふたらかうするより外ないのですもの、けれど安心して下さいませ、私決して貴女に恨み云ふたり泣き言聞かしたりするつもりではないのです。そりや、本気で云ふたら此の手紙の十倍も二十倍もの長い手紙書いたかて足りない位に思ひますけど、今更そんなこと云ふても何にもなりわしませんものねえ。オホヽヽヽヽヽ、私も苦労しましたお蔭で大変強くなりましたのよ、さういつも/\泣いてばかりゐませんのよ、泣きたいことや口惜くやしいことたんと/\ありますけど、もう/\考へないことにして、できるだけ朗かに暮らす決心しましたの。ほんたうに、人間の運命云ふものいつ誰がどうなるか神様より外知る者はありませんのに、他人の幸福を羨んだり憎んだりするなんて馬鹿げてますわねえ。
私がなんぼ無教育な女でも直接貴女に手紙上げたら失礼なことぐらゐ心得てますのよ、それかて此の事は塚本さんからたび/\云ふて貰ひましたけど、あの人どうしても聞き入れてくれませんので、今は貴女にお願ひするより手段ないやうになりましたの。でもかう云ふたら何やたいそうむづかしいお願ひするやうに聞えますけど、決して/\そんな面倒なことではありません。私あなたの家庭から唯一つだけ頂きたいものがあるのです。と云ふたからとて、勿論貴女のあの人を返せと云ふのではありません。実はもつと/\下らないもの、つまらないもの、………リヽーちやんがほしいのです。塚本さんの話では、あの人はリヽーなんぞくれてやつてもよいのだけれど、福子さんが離すのいやゝ云ふてなさると云ふのです、ねえ福子さん、それ本当でせうか? たつた一つの私の望み、貴女が邪魔してらつしやるのでせうか。福子さんどうぞ考へて下さい私は自分の命よりも大切な人を、………いゝえ、そればかりか、あの人と作つてゐた楽しい家庭のすべてのものを、残らず貴女にお譲りしたのです。茶碗のかけ一つも持ち出した物はなく、輿入こしいれの時に持つて行つた自分の荷物さへ満足に返しては貰ひません。でも、悲しい思ひ出の種になるやうなものない方がよいかも知れませんけれど、せめてリヽーちやん譲つて下すつてもよくはありません? 私は外に何も無理なこと申しません、蹈まれ蹴られ叩かれてもじつと辛抱して来たのです。その大きな犠牲に対して、たつた一匹の猫を頂きたいと云ふたら厚かましいお願ひでせうか。貴女に取つてはほんにどうでもよいやうな小さい獣ですけれど、私にしたらどんなに孤独慰められるか、………私、弱虫と思はれたくありませんが、リヽーちやんでもゐてゝくれなんだら淋しくて仕様がありませんの、………猫より外に私を相手にしてくれる人間世の中に一人もゐないのですもの。貴女は私をこんなにも打ち負かしておいて、此の上苦しめようとなさるのでせうか。今の私の淋しさや心細さに一点の同情も寄せて下さらないほど、無慈悲むじひなお方なのでせうか。
いえ/\貴女はそんなお方ではありません、私よく分つてゐるのですが、リヽーちやんを離さないのは、あなたでなくて、あの人ですわ、きつと/\さうですわ。あの人はリヽーちやんが大好きなのです。あの人いつも「お前となら別れられても、此の猫とやつたらよう別れん」と云ふてたのです。そして御飯の時でも夜寝る時でも、リヽーちやんの方がずつと私より可愛がられてゐたのです。けど、そんなら何で正直に「自分が離しともないのだ」と云はんと、あなたのせゐにするのでせう? さあその訳をよう考へて御覧なさりませ、………
あの人は嫌な私を追ひ出して、好きな貴女と一緒になりました。私と暮してた間こそリヽーちやんが必要でしたけど、今になつたらもうそんなもん邪魔になる筈ではありませんか。それともあの人、今でもリヽーちやんがゐなかつたら不足を感じるのでせうか。そしたら貴女も私と同じに、猫以下と見られてるのでせうか。まあ御免なさい、つい心にもないこと云ふてしまうて。………よもやそんな阿呆らしいことあらうとは思ひませんけれど、でもあの人、自分の好きなこと隠して貴女のせゐにする云ふのは、やつぱりいくらか気が咎めてゐる證拠では、………オホヽヽヽヽヽ、もうそんなこと、どつちにしたかて私には関係ないのでしたわねえ、けどほんたうに御用心なさいませ、たかゞ猫ぐらゐと気を許していらしつたら、その猫にさへ見かへられてしまふのですわ。私決して悪いことは申しません、私のためより貴女のため思ふて上げるのです、あのリヽーちやんあの人の側から早う離してしまひなさい、あの人それを承知しないならいよ/\怪しいではありませんか。………

福子は此の手紙の一字一句を胸に置いて、庄造とリヽーのすることにそれとなく眼をつけてゐるのだが、小鰺こあじの二杯酢を肴にしてチビリ/\傾けてゐる庄造は、一と口飲んでは猪口ちょくを置くと、
「リヽー」
と云つて、鰺の一つを箸で高々と摘まみ上げる。リヽーは後脚で立ち上つて小判型のチヤブ台の縁ふちに前脚をかけ、皿の上の肴をじつと睨まへてゐる恰好は、バアのお客がカウンターに倚りかゝつてゐるやうでもあり、ノートルダムの怪獣のやうでもあるのだが、いよ/\餌えさが摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧さうな眼を、まるで人間がびつくりした時のやうにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はさう易々やすやすとは投げてやらない。
「そうれ!」
と、鼻の先まで持つて行つてから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚さかなに滲みてゐる酢をスツパスツパ吸ひ取つてやり、堅さうな骨は噛み砕いてやつてから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろ/\にして見せびらかす。それにつられてリヽーは前脚をチヤブ台から離し、幽霊の手のやうに胸の両側へ上げて、よち/\歩き出しながら追ひかける。すると獲物をリヽーの頭の真上へ持つて行つて静止させるので、今度はそれに狙ひを定めて、一生懸命に跳び着かうとし、跳び着く拍子に素早く前脚で目的物を掴まうとするが、アハヤと云ふ所で失敗しては又跳び上る。かうしてやう/\一匹の鰺をせしめる迄に五分や十分はかゝるのである。
此の同じことを庄造は何度も繰り返してゐるのだつた。一匹やつては一杯飲んで、
「リヽー」
と呼びながら次の一匹を摘まみ上げる。皿の上には約二寸程の長さの小鰺が十二三匹は載つてゐた筈だが、恐らく自分が満足に食べたのは三匹か四匹に過ぎまい、あとはスツパスツパ二杯酢の汁をしやぶるだけで、身はみんなくれてやつてしまふ。
「あ、あ、あ痛いた! 痛いやないか、こら!」
やがて庄造は頓興とんきょうな声を出した。リヽーがいきなり肩の上へ跳び上つて、爪を立てたからなのである。
「こら! 降り! 降りんかいな!」
残暑もそろ/\衰へかけた九月の半ば過ぎだつたけれど、太つた人にはお定まりの、暑がりやで汗ツ掻きの庄造は、此の間の出水で泥だらけになつた裏の縁鼻えんはなへチヤブ台を持ち出して、半袖のシヤツの上に毛糸の腹巻をし、麻の半股引を穿いた姿のまゝ胡坐あぐらをかいてゐるのだが、その円々と膨らんだ、丘のやうな肩の肉の上へ跳び着いたリヽーは、つる/\滑り落ちさうになるのを防ぐために、勢ひ爪を立てる。と、たつた一枚のちゞみのシヤツを透して、爪が肉に喰ひ込むので、
「あ痛! 痛!」
と、悲鳴を挙げながら、
「えゝい、降りんかいな!」
と、肩を揺す振つたり一方へ傾けたりするけれども、さうすると猶落ちまいとして爪を立てるので、しまひにはシヤツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、
「無茶しよる。」
とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リヽーはそれをすつかり呑み込んでゐるらしく、頬ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使ひながら、彼が魚さかなを啣ふくんだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の端はたへ持つて行く。そして庄造が口をもぐ/\させながら、舌で魚を押し出してやると、ヒヨイとそいつへ咬み着くのだが、一度に喰ひちぎつて来ることもあれば、ちぎつたついでに主人の口の周りを嬉しさうに舐め廻すこともあり、主人と猫とが両端を咬へて引つ張り合つてゐることもある。その間庄造は「うツ」とか、「ペツ、ペツ」とか、「ま、待ちいな!」とか合あいの手てを入れて、顔をしかめたり唾液つばきを吐いたりするけれども、実はリヽーと同じ程度に嬉しさうに見える。
「おい、どうしたんや?―――」
だが、やつとのことで一と休みした彼は、何気なく女房の方へ杯をさし出すと、途端に心配さうな上眼使ひをした。どうした訳か今しがたまで機嫌の好かつた女房が、酌をしようともしないで、両手を懐ふところに入れてしまつて、真正面からぐつと此方を視詰めてゐる。
「そのお酒、もうないのんか?」
出した杯を引つ込めて、オツカナビツクリ眼の中を覗き込んだが、相手はたじろぐ様子もなく、
「ちよつと話があるねん。」
と、さう云つたきり、口惜くやしさうに黙りこくつた。
「なんや? え、どんな話?―――」
「あんた、その猫品子さんに譲つたげなさい。」
「何でやねん?」
藪から棒に、そんな乱暴な話があるものかと、つゞけざまに眼をパチクリさせたが、女房の方も負けず劣らず険悪な表情をしてゐるので、いよ/\分らなくなつてしまつた。
「何で又急に、………」
「何でゞも譲つたげなさい、明日塚本さん呼んで、早はよ渡してしまひなさい。」
「いつたい、それ、どう云ふこツちやねん?」
「あんた、否いややのん?」
「ま、まあ待ち! 訳も云はんとさう云うたかて無理やないか。何ぞお前、気に触つたことあるのんか。」
リヽーに対する焼餅やきもち?―――と、一応思ひついてみたが、それも腑に落ちないと云ふのは、もと/\自分も猫が好きだつた筈なのである。まだ庄造が前の女房の品子と暮してゐた時分、品子がとき/″\猫のことで焼餅を焼く話を聞くと、福子は彼女の非常識を笑つて、嘲弄の種にしたものだつた。そのくらゐだから、勿論庄造の猫好きを承知の上で来たのであるし、それから此方、庄造ほど極端ではないにしても、自分も彼と一緒になつてリヽーを可愛がつてゐたのである。現にかうして、三度々々の食事には、夫婦さし向ひのチヤブ台の間へ必ずリヽーが割り込むのを、今迄兎や角云つたことは一度もなかつた。それどころか、いつでも今日のやうな風に、夕飯の時にはリヽーとゆつくり戯れながら晩酌を楽しむのであるが、亭主と猫とが演出するサーカスの曲藝にも似た珍風景を、福子とても面白さうに眺めてゐるばかりか、時には自分も餌を投げてやつたり跳び着かせたりするくらゐで、リヽーの介在することが、新婚の二人を一層仲好く結び着け、食卓の空気を明朗化する効能はあつても、邪魔になつてはゐない筈だつた。とすると一体、何が原因なのであらう。つい昨日まで、いや、ついさつき、晩酌を五六杯重ねるまでは何のこともなかつたのに、いつの間にか形勢が変つたのは、何かほんの些細なことが癪に触つたのでもあらうか。それとも「品子に譲つてやれ」と云ふのを見ると、急に彼女が可哀さうにでもなつたのか知らん。
さう云へば、品子が此処を出て行く時に、交換条件の一つとしてリヽーを連れて行きたいと云ふ申し出でがあり、その後も塚本を仲に立てゝ、二三度その希望を伝へて来たことは事実である。だが庄造はそんな云ひ草は取り上げない方がよいと思つて、そのつど断つてゐるのであつた。塚本の口上では、連れ添ふ女房を追ひ出して余所の女を引きずり込むやうな不実な男に、何の未練もないと云ひたいところだけれども、やつぱり今も庄造のことが忘れられない、恨んでやらう、憎んでやらうと努めながら、どうしてもそんな気になれない、ついては思ひ出の種になるやうな記念の品が欲しいのだが、それにはリヽーちやんを此方へ寄越して貰へまいか、一緒に暮してゐた時分には、あんまり可愛がられてゐるのが忌ま/\しくて、蔭でいぢめたりしたけれども、今になつては、あの家の中にあつた物が皆なつかしく、分けてもリヽーちやんが一番なつかしい、せめて自分は、リヽーちやんを庄造の子供だと思つて精一杯可愛がつてやりたい、さうしたら辛い悲しい気持がいくらか慰められるであらう。―――
「なあ、石井君、猫一匹ぐらゐ何だんね、そない云はれたら可哀さうやおまへんか。」
と、さう云ふのだつたが、
「あの女の云ふこと、真まに受けたらアキまへんで。」
と、いつも庄造はさう答へるに極まつてゐた。あの女は兎角懸引かけひきが強くつて、底に底があるのだから、何を云ふやら眉唾物まゆつばものである。第一剛情で、負けず嫌ひの癖に、別れた男に未練があるの、リヽーが可愛くなつたのと、しをらしいことを云ふのが怪しい。彼奴あいつが何でリヽーを可愛がるものか。きつと自分が連れて行つて、思ふさまいぢめて、腹癒はらいせをする気なのだらう。さうでなかつたら、庄造の好きな物を一つでも取り上げて、意地悪をしようと云ふのだらう。―――いや、そんな子供じみた復讐心より、もつと/\深い企みがあるのかも知れぬが、頭の単純な庄造には相手の腹が見透せないだけに、変に薄気味が悪くもあれば、反感も募るのだつた。それでなくてもあの女は、随分勝手な条件を沢山持ち出してゐるではないか。しかしもと/\此方に無理があるのだし、一日も早く出て貰ひたいと思つたればこそ、大概なことは聞いてやつたのに、その上リヽーまで連れて行かれて溜るものか。それで庄造は、いくら塚本が執拗しつッこく云つて来ても、彼一流の婉曲えんきょくな口実でやんはり逃げてゐるのであつたが、福子もそれに賛成なのは無論のことで、庄造以上に態度がハツキリしてゐたのである。
「訳を云ひな! 何のこツちや、僕さつぱり見当が付かん。」
さう云ふと庄造は、銚子を自分で引き寄せて、手酌で飲んだ。それから股をぴたツと叩いて、
「蚊遣かやり線香あれへんのんか。」
と、ウロ/\その辺を見廻しながら、半分ひとりごとのやうに云つた。あたりが薄暗くなつたので、つい鼻の先の板塀の裾から、蚊がワン/\云つて縁側の方へ群がつて来る。少し食ひ過ぎたと云ふ恰好でチヤブ台の下にうづくまつてゐたリヽーは、自分のことが問題になり出した頃こそ/\と庭へ下りて、塀の下をくゞつて、何処かへ行つてしまつたのが、まるで遠慮でもしたやうで可笑しかつたが、鱈たらふく御馳走になつた後では、いつでも一遍すうつと姿を消すのであつた。
福子は黙つて台所へ立つて行つて、渦巻の線香を捜して来ると、それに火をつけてチヤブ台の下へ入れてやつた。そして、
「あんた、あの鰺、みんな猫に食べさせなはつたやろ? 自分が食べたのん二つか三つよりあれしまへんやろ?」
と、今度は調子を和やわらげて云ひ出した。
「そんなこと僕、覚えてエへん。」
「わてちやんと数へてゝん。そのお皿の上に最初十三匹あつてんけど、リヽーが十匹食べてしもて、あんたが食べたのん三匹やないか。」
「それが悪かつたのんかいな。」
「何で悪い云ふこと、分つてなはんのんか。なあ、よう考へて御覧。わて猫みたいなもん相手にして焼餅焼くのんと違ひまつせ。けど、鰺の二杯酢わては嫌ひや云ふのんに、僕好きやよつてに拵こしらへてほしい云ひなはつたやろ。そない云うといて、自分ちよつとも食べんとおいといてからに、猫にばつかり遣つてしもて、………」
彼女の云ふのは、かうなのである。―――
阪神電車の沿線にある町々、西宮、蘆屋、魚崎、住吉あたりでは、地元じもとの浜で獲とれる鰺や鰯を、「鰺の取れ/\」「鰯の取れ/\」と呼びながら大概毎日売りに来る。「取れ/\」とは「取りたて」と云ふ義で、値段は一杯十銭から十五銭ぐらゐ、それで三四人の家族のお数かずになるところから、よく売れると見えて一日に何人も来ることがある。が、鰺も鰯も夏の間は長さ一寸ぐらゐのもので、秋口あきぐちになるほど追ひ/\寸が伸びるのであるが、小さいうちは塩焼にもフライにも都合が悪いので、素焼きにして二杯酢に漬け、※莪しょうが[#「くさかんむり/生」、U+82FC、272-8]を刻んだのをかけて、骨ごと食べるより仕方がない。ところが福子は、その二杯酢が嫌ひだと云つて此の間から反対してゐた。彼女はもつと温かい脂ツこいものが好きなので、こんな冷めたいモソモソしたものを食べさせられては悲しくなると、彼女らしい贅沢を云ふと、庄造は又、お前はお前で好きなものを拵へたらよい、僕は小鰺が食べたいから自分で料理すると云つて、「取れ/\」が通ると勝手に呼び込んで買ふのである。福子は庄造と従兄弟いとこ同士で、嫁に来た事情が事情だから、姑しゅうとめには気がねが要らなかつたし、来た明くる日から我が儘一杯に振舞つてゐたけれど、まさか亭主が庖丁ほうちょうを持つのを見てゐる訳に行かないから、結局自分がその二杯酢を拵へて、いや/\ながら一緒にたべることになつてしまふ。おまけにそれが、もう此処のところ五六日も続いてゐるのであるが、二三日前にふと気が付いたことゝ云ふのは、女房の不平を犯してまでも食膳に上せる程のものを、庄造は自分で食べることか、リヽーにばかり与へてゐる。それでだん/\考へて見たら、成る程あの鰺は姿が小さくて、骨が柔かで、身をむしつてやる面倒がなくて、値段のわりに数がある、それに冷めたい料理であるから、毎晩あんな風にして猫に食はせるには最も適してゐる訳で、つまり庄造が好きだと云ふのは、猫が好きだと云ふことなのである。此処の家では、亭主が女房の好き嫌ひを無視して、猫を中心に晩のお数をきめてゐたのだ。そして亭主のためと思つて辛抱してゐた女房は、その実猫のために料理を拵へ、猫のお附き合ひをさせられてゐたのだ。
「そんなことあれへん、僕、いつかて自分が食べよう思うて頼むねんけど、リヽーの奴があないに執拗ひつこう欲しがるさかいに、ついウカツとして、後から/\投げてまうねんが。」
「うそ云ひなさい、あんた始めからリヽーに食べささう思うて、好きでもないもん好きや云うてるねんやろ。あんた、わてより猫が大事やねんなあ。」
「ま、ようそんなこと。………」
仰山ぎょうさんに、吐き出すやうにさう云つたけれど、今の一言ですつかり萎しおれた形だつた。
「そんなら、わての方が大事やのん?」
「きまつてるやないか! 阿呆あほらしなつて来るわ、ほんまに!」
「口でばつかりそない云はんと、證拠見せてエな。そやないと、あんたみたいなもん信用せエへん。」
「もう明日から鰺買ふのん止めにせう。な、そしたら文句ないねんやろ。」
「それより何より、リヽー遣やつてしまひなはれ。あの猫ゐんやうになつたら一番えゝねん。」
まさか本気で云ふのではないだらうけれど、タカを括り過ぎて依怙地えこじになられては厄介なので、是非なく庄造は膝頭を揃へ、キチンと畏まつてすわり直すと、前屈まえかがみに、その膝の上へ両手をつきながら、
「さうかてお前、虐いじめられること分つてゝあんな所とこへやれるかいな。そんな無慈悲なこと云ふもんやないで。」
と、哀れツぽく持ちかけて、嘆願するやうな声を出した。
「なあ、頼むさかいに、そない云はんと、………」
「ほれ御覧、やつぱり猫の方が大事なんやないかいな。リヽーどないぞしてくれへなんだら、わて去いなして貰ひまつさ。」
「無茶云ひな!」
「わて、畜生と一緒にされるのん嫌ですよつてにな。」
あんまりムキになつたせゐか、急に涙が込み上げて来たのが、自分にも不意討ちだつたらしく、福子は慌てゝ亭主の方へ背中を向けた。